回想録
【旅行&回顧録】小樽帰省7/27-29(5)
墓参りをすべて終えて、、、島牧から岩内へ向かい、
そこから余市へと入りました。
その間に、とうもろこしを間食し、でも、少し小ぶりでまだ旬ではないかな、って感じでした。
で、余市と言えばウイスキー工場かと思いますが、このご時世、完全予約制みたいで、
目の前を車で走り抜けて終わり。(笑)
近くに余市宇宙記念館ってのがありました。宇宙飛行士の毛利さんが余市出身で。
ほんとに観光客がいなくて、、、閑散としていました。
入口にあった、はやぶさ2号の模型を記念に撮影しました。(笑)
そこから、やはりワイナリーへ寄ってきました。
行ったという記念に写真。(笑)
レストランも14:30までと早くて、人が来ないからでしょうね。
コロナが影を落としていますね。
今回は、いい大人たちでの旅でしたが、皆で自撮りしまくっていました。
段々撮り続けると自撮りが上手になり、手際が良くなっていきました。
ワロたよ。
そして、夕飯に向かい、兄弟で色んな話になって、
家族の歴史の重さや長さを感じました。
そこから、私は姉と姉の同級生たちとお会いしまして、
9/3の小樽のライブについてのお話や、ま、色んな話に飛ぶわけですが(笑)
楽しい時間を持つことが出来ました。
ゆったり翌日はチェックアウトして、
最後の昼食は、お蕎麦屋です。
この蕎麦寿司が、すし酢が付いていて、とても美味しかったです。
ここは、人気店のようで、芸日のお昼にも関わらず待ってる方がいました。
沢山美味しいものを食べて、過去の記憶をさかのぼり、そして兄弟で新しい思い出を作り、
先祖を思い、、、とても有意義で、昨今にない旅の形でした。
コロナで落ち着かない時期ではありましたが、行って良かったです。
ふう~、旅日記、終了です。
さ、東京は猛暑ですが、私は8月の昭和歌謡のライブの練習や、
9/3の準備、あれやこれやとしなくては、です。
夏バテしていないのが、唯一の救いです。
【旅行&回顧録】小樽帰省7/27-29(4)
岩内から1時間~1時間半くらいかけて行きました。
島牧に入ってから、兄弟で墓場の場所を記憶を辿りながらの捜索です。
実は前日に姉が村役場へ連絡をしてみたんだそうです。
小さな村なら墓場なんて1か所だろう、くらいに私は高を括っていました。
が、役場には5か所あると言われたらしい。(笑)
でも、記憶の立地を伝えたら、大体の目星がつきました。
そして、墓場のふもとにお寺さんがあって、そこに連絡したそうです。
檀家ではないものの、状況を知っていて、、、
結論から言うと、、、お祖父母の墓は、「墓じまい」してたんです。
それも、、、、1週間前に。衝撃の事実でした。
母の姉夫婦が墓守していました。そのおばも亡くなられて久しく、
そのご子息が墓守していたものの、祖父母の墓の管理については、
処理をしたようなんです。
1週間前って、、、なんというタイミングでしょうか。
もしかすると、これが一区切りだったのかもしれません。
お寺の方で電話対応くださった方が、丁度表に出てて、これもすごいタイミングだな、、、と
直接お話を伺うことが出来、自分の管轄ではないものの、隣エリアの墓の場所を教えてくれました。
ほんとに墓じまいって、空き地になるんですね。。。。
その通り向かいが、伯父、伯母の先祖代々の墓がありました。
一度墓から降りて、唯一の商店街へ行き、お花を買って、伯母について話をしました。
10年位の話なら、地元の方は覚えている。(笑)
伯母の家は既に無くなっていましたが、場所も教えてくれて、、、、
もう一度、墓に戻り、墓参り。墓じまいした空き地ではありますが、皆で手を合わせてきました。
忘れられない事実であり、これが最後かな、、、とか色々思いながら、
私も今回の最大ミッションのピークを迎えたわけです。
墓参りを終え、懐かしい場所の捜索です。
このバス停がキーとなるんですが、もうバスは一日1本とかで、、、
どう考えても、車がないと来れない場所ということが分かりました。
兄弟みんなが、思い出に残ってる、目の前の海岸です。
石浜なんですよね。。。
天気良くって、絶景でした。
ただ、20数年前に津波被害があって、
当時も伯父、伯母が裏山へ手をつないで逃げたという話を聞いていまして、
今は海岸沿いは、防波堤のように設備されていました。
祖父は、この島牧の小学校で校長をしていた時期があります。
伯母、母も、教職員として勤めていたことがあるんです。
この小学校が閉鎖になって、体育館が公民館に変わって、
村の集会とか葬儀などに使っています。伯父が亡くなったとき、来た記憶がありました。
なので、当時の若かりし、祖父、伯母、母の写真が実は飾ってありましてね。。。(笑)
公民館の中を見せてもらおうと、公民館のカギを預かってるという村人のお宅へ、、、(笑)
気持ちよく状況を理解してくださって、中を開けてくれました。
改めて、記憶に刷り込んできました。
祖父の写真は、、、ま、個人情報だし、ここに掲載は割愛とします。
イケメンな祖父なんです。
我が家は父方の顔と思ってましたが、母方の祖父の感じも持っていると感じます。
帰宅後に、改めて祖父の亡くなった日を調べましたところ、
私も思い出したんですが、祖父が亡くなった3週間後に私が生まれているんです。
出産予定日から2週間遅れた私なので、母は臨月だったんですね。。。
私の父が亡くなった1週間後に姪が生まれていて、、、なんか人生の不思議な縁を感じます。
祖父母の墓をお参りしたいという強い想いも、墓じまいという結論で終幕したわけですが、
兄弟の心にも残る、意味あるものとなりました。
旅の話はまだ、、、つづくよ。(笑)
【旅行&回顧録】小樽帰省7/27-29(3)
昼下がりの午後から、小樽から岩内へ移動しました。
それでも、そんなに急がなくても2時間もあれば岩内市内に着きます。
ネット検索で、キレイで手ごろな価格帯だったので、
岩内旅館「おかえりなさい」で宿泊です。
部屋で一休みしたら、夕飯タイム。
鍋のようなものは味噌汁。ハマグリを入れてしっかり出汁を出すというアイデアだったのですが(笑)、
以外にもハマグリが開かなかった。皆で、ブツブツ言いながら、、、
以外と皆、ブツブツ言っていて、品田家ってうるさいんだ、と新しい発見でした。あはは
旅館スタッフが「白米とホタテごはん、どちらが良いですか?」聞かれ、
そりゃあ、迷わずホタテ炊き込みご飯だよね。(笑)
今は夕飯でライスが食べないんですが、食べました。
なので、帰宅後は太ってました。
大浴場へ行って、湯舟を堪能して、ゆったりとした時間を過ごしました。
しかし、窓を開けても風邪一つ吹かず、東京と変わらない暑さでした。
びっくりです。
私が小樽に住んでいた時、掛布団なしで寝た記憶、そんなにないんですが、
でも、親がうちわであおいでくれた、など兄弟の記憶にあるので、
きっと暑い日ってあったんだよね。(笑)
この日、ほんとに暑くて旅館の厚めの掛けフトンは無理でした。
翌朝6時半に起きて、ひとっ風呂浴びて、、、
皆で朝食を食べ、ゆっくりしてから旅館を出発しました。
同じく出発しようとしてた、老夫婦がいたんです。
それが70代後半か80歳くらいだ、と兄弟で激論したんですけど(笑)、
なんと二人で相乗りバイクだったのよ!!
しかも、大阪ナンバー。フェリーで乗り継いで、気ままな夫婦での旅なんだそうで。。。
カッコよすぎました。
今日の晴天で、いよいよ母方のお墓参り、島牧へ向かいします。
【旅行&回顧録】小樽帰省7/27-29(2)
午前中のフライトで千歳空港に到着。
行きは1時間で着くんですね~。早い。
ここから便利なレンタカーで移動です。
小樽に到着したらお昼だったので、ランチで腹ごしらえをしました。
運河通りのお店へ。築130年の年季の入った建物でした。
民家の改築という形跡があちらこちらに。面白かったです。
知人の紹介で行ったので、色々サービスしてくださったんです。
有難いですね。ありがとうございました。
お腹も空いていたので、ペロっと食べちゃいました。
さ、これから墓参り。
7月27日は父の命日。
命日当日の墓参りは、実は亡くなって以来、兄弟も初めて。
長い時を経て、今日という日を迎えられたことが、嬉しくなる事実でした。
このお墓には、祖父母も眠っています。
ま、墓の写真なので、掲載は割愛とします。
なんせ後ろのお墓の名前が写真を撮るとしっかり映ってしまい、
誰の墓参り?みたいな写真になって、大笑いでした。
不慣れな自撮りに、あーでもない、こーでもないって、、、
大騒ぎよ。ウケる~。
色々あったことも、兄弟で語りながら、ここから小樽観光となりました。
懐かしい場所をめぐり、ソフトクリーム味覚問題が勃発。(笑)
ソフトクリームなのに、さっぱり系が良いだとか、好みがあることが判明。
ここでソフトクリームを購入。懐かしいお店の健在。
そして、やはりスキーの話になり、完全観光人となって
天狗山ロープウェイ初乗車しました。
こんな写真用スポットありましたよ。ウケる~。
それから、奥の方にナイスビューシートもありました。
天候にも恵まれ、いい見晴らしでした。
ここには猿田彦神社(伊勢)の御霊分けされた神社もありました。
シマリスのエサやりなどもありましたよ。(笑)
完全なる観光でした。
ここから、1~2時間かけて岩内へGo!
昭和の小樽
昔の運河は、雨が降ると臭かったぁ。
そうそう、ヘドロの臭いね、、、地元民はよくそう言ってたね。
大学時代に自分の貯めたお金で、Nikonの一眼レフカメラを買って、
楽しんでいました。
歳が離れている私は、「私も撮りたい!貸して」と言って借りようとした事があります。
でも父が心配して、私に「高価で大切なものだから、やめなさい」と言いました。
その時私は、いざ貸してくれる事になったものの、壊したら大変だ、、、と
内心思っていたので、父の言葉に反抗することなく、受け入れた、
そんなことを記憶しています。
兄の優しさと父の正論、そんなことだけ覚えています。
今となっては貴重な写真ですね、、、改めて。
フォトブックには、写真を撮ったときの日記にようなものも記されています。
本当は、兄にとっても貴重なものかもしれません。(笑)
久しぶりの回想録となりました。
【備忘録】私と書道の関係
音楽が出来ない日々が続いています。
もう、廃人です。こんなに遠のいたのは、私が一度音楽をやめようと思った時以来です。
あの時も、全く音楽が手につかなかった、、、
今も先の見えない、分からない状況に、正直全く手につきません。
「未来」が見えないってこんなに、人をダメにするんですね。。。
私は、「希望」があるということが、人生のモチベーションであるとつくづく思い知らされます。
さて、
今はひたすら筆耕業務が進んでいて、色々と人生を回顧する時間も増えました。
まあ、それがいいのか分かりませんが、人生の選択について振り返ってしまいます。
いやですね、変に時間があるって。。。
私の「書道」のきっかけは、自分が唯一「習いたい習い事」だったんです。
同級生がたまたま習っていて、そこに通いだしたんですけど、、、
なんかコツコツやっていましたね。。。
家に、書籍で「字の成り方」みたな本がありました。
「川」という字なら、実際の川の絵から、こうやって漢字が出来ているっていう本。
私は、その本が好きでよく見ていました、記憶に残っています。
そこから、文字に対する興味が、そもそも有ったんだと思います。
学生途中で、北海道から関東へ引っ越ししたときに、先生は無償で遠距離を教えてくれていました。
本当にあの時のお母さん先生には感謝です。
そして、私の高校には選択教科で「書道」がありました。
私は迷わず選択しました。
この時の非常勤講師の先生にもお世話になりました。
何かと察して、私に先生の個人的書き写しのバイトをさせてくれました。
これが、私の「筆耕業務」の原点と言ってもいいかもしれません。
書道においても、沢山の大人たちに支えられ、私はまい進していました。
そんなことを思い出しました。
その後、書道の学校に通って、大きな作品作りをして、展示会の時には、その高校時代の先生も観に来てくれました。
今となっては、もう連絡もしていませんが、どうしていますかね、、、
あの時、先生は「自分がこの道で身を立てるまでは、」と言っていました。
それまでは、結婚をしないと決めていたような記憶があります。
そこまで、人生をかけて、、、と思ったり、その道を覚悟するって、こういうやり方もあるんだ、、と
好きなことや、人生をかけてやるものに対する姿勢を、実はこの時に刷り込まれるほどの影響を実は受けていたんだ、
と今回気づきました。(笑)
高校時代、この先生には、ほんとお世話になって、
PTA開放の表紙に書かせてもらってのが、今も残しておりました。
この字を見ても、私は生真面目さがとても出ています。
もっと自由さ、型破りさ、が欲しいようなことを先生に言われた記憶があります。
その生真面目さは、音楽にも出ます。ビジネスではそれは有益な武器になりますが、
私は、いつもそんな生真面目さは芸術には弊害だと感じています。
そんな自分と長く付き合ってきたんだな、、、と改めて感じつつ、
自分は「自由」を今も求めて、模索しています。
今、筆耕業務ですが、好きなことがやれてることが、自分を支えています。
私はそうでなければ、「生きた死人」になってしまう。
この状況下で、幸せなことだと思っています。
自分を見失わないよう、、、必死ですね。。。
兄との新年会
新年早々、長兄と食事をしました。
兄は立場上多忙ではありますが、定期的に最近は会うようにしています。
近況を話したり、他の家族のことなどなど。。。。
何が食べたい?と聞かれ、焼き肉をリクエストしたのですが、
普段仕事上で焼き肉接待など、「Docter X」であるまいに、、、(笑)
そうないわけで、兄はそのリクエストに自分で焼き肉屋を調べてくれました。
なんて優しいんでしょ。しかも私の住んでる地域で。。。
とても贅沢な焼き肉でした。
が、兄と話すことに集中して(笑)、とりあえず写真を撮ったものの、
何を食べたか、、、あはは
お店もタレを変え、トッピングを変え、、、色々アレンジしていました。
とても肉の脂がさっぱりしてて、美味しかったです。
タン塩、中にネギが入ってまして、軽い炙りくらいで、頂きました。
まだ、写真には見切れた、下の方に、タレがあります。(笑)
サーロインのにぎり。(笑)キャビアのせ!!!
さっぱりしてましたよ。
肉の中に、うにが入ってます。なんというアレンジ。アハハ
肉の色を見てもほぼ生。。。でも臭みなんて当然ないし、ほんとに軽く頂ける肉でした。
コースとは別に、重くなく、でももうちょっと食べたいと言ったら薦めてくれた一品です。
締めも肉の肉三昧!!!
色んな話をしながら、家族、親戚の話もしましたが、
一番面白かったのが、正月に今一番お気に入りの番組を見たって話で、
テレビ東京の「池の水を抜いてみた」を見たんだ、面白かったって言ったら同じのを見てて、大ウケしたんだけど。
兄妹ってほんと似てるのね。笑った。笑った。
いくつになっても、そうやって何気ない話を出来るってことも、
兄妹って有り難いと思う。
長兄とはとても年齢差はあるけれど、気持ちの共有とか、共感とか、相手を思う深い愛情とか、、、再認識させられます。
今回は、珍しく2ショットを撮りました。
いつでも、いつまでも妹を思いやる、本当に父以上に父のようで、兄としては出来すぎる兄です。
兄が健在であることが、私の支えであるというくらい、兄が大好き。(笑)
プライベートは余り書かないのですが、特筆しておきたく、
兄が現在の職責についた時に着任したときに、書き留めたもの。
ご興味ある方は、是非、ご一読下さい。
兄がどれだけ、逆境に耐え、逃げず、向き合い、そして心を砕いてきたか、、、
そして、強く、優しく、とてつもない包容力と、リーダーシップか、、、
人として尊敬し、身近で感じれるということの幸せを強く感じます。
http://shinazo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-7e4f.html
【家族】一つの節目
家族の事やプライベートの話は最近、ほとんどしないのですが、
それは、このネット社会、色々問題が多いので、避けてきました。
ただ、今日は、敢えて一つ書こうと思います。
我が兄、長兄がこの6月、一つの節目を迎えます。(私とは年が離れておりますよ、これも敢えて!言っておこう)ただ、社会的立場もありますので、詳細には書けませんので、文面が難しいですが、是非書きたいと思います。
長兄は、私にとって兄というより父親以上に父親であり、最大の理解者であり、尊敬する、偉大な人格者であります。
その兄は、一企業を全うしました。それだけで凄い時代ですが、そこでトップにまでなりました。トップになることが凄いという事を書きたいのではなく、兄の性格からして、派閥などの争いは好まないし、上司に媚びるタイプでも、部下に偉ぶるでもない性格で、トップでいたという事です。
兄は、私が子供の頃、父が急死しして、当時、既に東京へ就職していましたが、幼い妹と母を心配して、東京へ呼び寄せたんです。まだ就職して数年。しかも、父が他界して、一週間後には子供が産まれる予定、、、という状況でした。
兄は大家族の長兄として、生まれながらのリーダーの才覚を本当に持っています。それだけに、頼られる事に1度として嫌な顔をした事がなく、むしろ歓びに出来る稀有な資質を持っています。
だから、兄は家族のためにする事は「当たり前」のように受け止めていたんだと思うけど、そう出来ることではありません。
そして、当時、東京と北海道を往復しながら準備をして、当時、よく上司が長期の休暇を許可し、家族のことをさせてくれたな、、、と、私は、今もこの企業さんに感謝をしています。で、なければ私は存在しないんですから。
この長兄とは、私は他の兄弟より深い縁を持っていると思います。
今思うと、私の人生の節目には必ず、関わってくれましたね。わが子のように。
随分前でしたが、銀座で歌っていたお店に来たお客様に兄と同じ会社の方がいました、そして、話をしてると転勤した先にも居た事があるとの事だったので、
「あの、会社に品田○○っていませんか?兄です。」と聞いたんです。
そうしたら、「ええええ、品田の妹??」という事がありました。当時、会社の先輩に当たるんでしょうね。
翌日、すぐに兄にメールして、「昨日、○○さんに会いました。」と。そうしたら兄から「お前、粗相は無かっただろうな??」と背筋凍るメールが飛んできました。アハハ。
私は「いえ、決して。。。。。ただ、チケット頂きました。」と当時はまだゆるい、いい時代でしたから、タクシーチケットもね、、、ま、時効ということで。
その一言で、兄が対人関係においての姿勢を感じました。
そして、私がバイトというか、月に数回テータ入力の派遣の仕事で兄の企業に行ったことがあるんです。それもなんという偶然か、と思ったのですが。
当時は、兄は本社だったので、私は支店だったので会わないな、、、と思ってたら暫くして、兄がその支店の支店長でやってきて、あの時は驚きました。兄も敢えて言ってこないし、、、、当時も今もそうですが、何かないと連絡しないので、久しぶりの再会状態でした。
しかし、母のこともありましたし、疎遠になりがちな私を神が父が導いた『奇跡』だったと思ってますし、その偶然を感謝しています。それでも、兄は怒るでも嫌味一つなく、「元気か?」と相手の心配をしてくれます。包容力というか、情愛の深い人であります。
この事がきっかけで私も母の最後に関われましたし、兄には感謝でしかありません。
本当は、母の葬式も、会社を通すべき事だったと思うのですが、そうするとご母堂様、ご逝去となって大事(おおごと)になりますが、身内で済ませました。経済的、社会的な面倒もあったと思いますが、多分、兄は母を静かに息子で見送りたかったのでは、と私は推測しております。見栄のない、シンプルな人です。
母の長兄への愛情は、他の兄弟がひがむほど、それはそれは。私は、そういうとこは無頓着なので、気づかなかったんですが。(笑)
私は、それ以上に兄弟から、本当に年も離れていた分、可愛がってもらった、という実感がありますので、親からの分散する愛情に、余り気にしてなかったような気がします。気難しい成長期に父が他界したので、少し他の人とは感覚が違うかと思います。
兄は、本当に夜の時間も多忙で、あるとき約束しようと思ったら2ヶ月先のこの日しか空いてない、と言われたことがあります。アハハ。
でも、その時、私が途中で歌の仕事が入って、レストランだったので、早めに終わるから、その後食事しようとなりました。
その時、初めて、今やってる歌を兄は聴いたかと思います。
終わって兄の席に行くと、兄は泣いていました。少し、テクニック的な事を言いながら、あれが敢えてその感じがいいね、、、と言いながら「がんばれよ」と言ってくれて、、、私は泣きそうになりました。
私は、商社などOL経験もあります。それを捨てて、音楽をやるという事が家族への不安を持たせた事への負い目をずっと持っていただけに、必要ないときは連絡しなかったのです。それを兄は分かっていました。
だから、兄のその涙と言葉は、私の心の荷を降ろすきっかけになりました。
少し、私の知る限りの中で書くと、兄は30歳そこそこで組合長になりました。メーカーで言うとこの組合は組織として大きく、その組合長を10年余りしていました。むしろ、企業の仕事に戻れるのか?と心配したほどです。そして、転勤を数回経験し、管理職として、奮闘してきたわけです。
私が兄の企業に関わっていた時、部下の方が言った言葉がとても印象的でした。
『品田さんは、ブレない人です。』
。。。。。そうだ、兄はいつだってブレない。悩んでいてもそれを下の者には見せない。いつだって、自分の中で耐え忍ぶ人だ。
だから、兄弟は、兄のする事に反対をした事がない。口うるさい者が居ないわけではないですが、兄は皆の意見を聞きながら最後の決定し、実行し、責任を取る。
それが、家族から、企業という規模に変わっても、変わらないし、権力があろうともそこでもブレない、それは、凄いことだと思う。
家族が出来れば、兄弟、親戚への距離感が変わるものだが、兄は変わらない。義姉もそこは兄に従うんだと思いますけど、それだけ家族への愛情があるから義姉も理解してるんだと思う。それも、私は感謝している。
私の長兄への愛情は、表現できないほど大きい。(笑)
どんな時も対応が変わらず、いつも心配してくれる。『何かあったら連絡しろよ、遠慮するなよ。』と言ってくれる。兄弟の中には、『下の者が、連絡してくるのは筋でしょ』くらいな事を言う人はいるんですよ。意識が自分にあるか、人にあるかで、180度言葉が違います。
時々、思うのは、兄はこの年離れた妹を、小さい時に親が亡くなって、自分が東京に呼び寄せて良かったのか、、、「不憫」に思っているんじゃないか?と思う。だから、自分が出来ることはしてあげようと押し付けではなく、見守り、支えようと思ってるんだと、、、それは、この年齢になっても変わらないんだと思う時がある。
私は、お世話になったこの企業の定年を機に、一つ荷を降ろして欲しいと思うし、次に更なる重責が待ち構えているんですが、兄が持つリーダーとしての才覚を天職ですから、全うして欲しいと、社会でその才能を発揮して欲しいと思う。
尊敬する偉大な兄へ、感謝と愛を込めて。
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