訃報
12月23日 告別式でした。
奥様よりご連絡をいただき、参列してまいりました。
故人の意思により、通夜を行わず、お花や香典もご辞退いたします。とのことで、
大野さんらしいと思いました。
用意はして行ったものの、受け取る場所がなく持ち帰ってきました。
私は20年来のお付き合いではありましたが、
大野さんがプロテスタントのクリスチャンとは知りませんでした。
プロテスタントのキリスト教による葬儀でした。
大野正道さんは、満洲国で生まれたと聞いていました。
戦前からの日本の変遷を見て来た人でしたね。
このたびの葬儀で知ったことは、祖父が牧師で日本に戻ってきたとき、
身を寄せていたと。
そこから東京へ移住となり、二浪して早稲田大学へ進学したと、
その浪人中にジャズに出会ってしまってね、、、と
いつも笑いながらお話ししてくださいました。
Jパワー(現:電源開発(株))の常務取締役を務め、私が知り合った時は関連会社の社長だったと思います。
そのころ私は銀座のクラブで歌っていたことがあり、そのお店にいらっしゃったことがきっかけでした。
クラブで歌うことは決して楽しいものではなく、私には黒とまでは言わないが、グレー歴史です。
身体もボロボロになりましたから。。。
そう思うと、あの時、あの場所で歌っていたことは、決して無駄ではなかったと
自分を労わってあげたいと思います。
そこから、大野さんは機会があればライブに来てくださり、
完全にリタイヤした後も、本当に影日なたとなりご支援、応援してくださいました。
大野さんがいなければ、私の音楽への気持ちは切れていたかもしれません。
それぐらい大きな存在でした。
奥様の最後のご挨拶で、
「結婚55年を迎えて、故人から人の悪口、愚痴を聞いたことがありません」と言っていました。
大野さんは、私にも何か言うことはありませんでした。
でも私が困ったときは、「こうすべき」と言うのではなく、私に考えさせるよう語り掛けてくれました。
私は感謝しても感謝しきれない方でした。
お仕事で海外勤務もあり、海外が大好きな方でした。
70代後半に一人でアメリカ大陸ルート66を通り横断したり、、、
70代でも山に登っていましたし。。。
本当に心も若く、お元気な方でした。
奥様のお話で、海外には40カ国くらい行ったのではないかと思いますと。
そして、大野さんの父親という方が、その時代にしてペルーで風力発電による支援事業を行っていた方のようで、
それもあり、大野さんか火力発電での海外支援には強い思いがあったようです。と伺いました。
全てのお話が、私の知る大野さんの姿を形づけられていきました。
本年6月に病気を発症し、腰痛などあり、そこからお会い出来なくなりました。
11月の下旬に緊急入院したようで、その後はご友人などお見舞いに行かれてたと聞き、
私も最後にお会いできなかったことが悔やまれて仕方ありません。
レコーディングの朝、大野さんへメールして「肩の力を抜いて頑張ってください」
それが大野さんとの最後の会話となりました。
出棺時、奥様が私に気づいてくださり、私は号泣でお声をかけることが出来ず、
奥様が「頑張ってね」と私に声をかけてくださりました。
ご家族は、亡くなる前日に皆お会いすることが出来たとのことで、
きっと覚悟していたのだろうと思われます。
ご家族の皆様は落ち着いて、泣くことなく、葬儀を執り行っておりました。
12月15日 永眠 84歳
心から感謝と、お悔やみを申し上げます。
本当にありがとうございました。
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