芸は結果が全てか?
最近、飽きるほど報道されていますね、エビ様。(笑)
ワイドショーで、コメンテーターが
「役者は、舞台で結果を出せばいいんだ」と言っていた。
確かにそうだ。
でも、その結果を出すために日々の精進があり、
それが舞台なりで出るのだ。
だとしたら、いい結果を出すにはいい過程(プロセス)がある。
プロセスを踏まずして、結果など出ない。
歌舞伎というこれまた独特の世界で、60にして一人前といわれる世界で、名門の家に生まれ、背負ったものの大きさなど、一般人には分かりもしないが、「芸」というものに対しコメンテーターの「結果論」が軽く感じられた。
例えば、美術の絵画、陶芸などの作品や、音楽でもアルバムなど、形になるものは、その作品(結果)が問われるわけだが、無形文化は、その「技」であり、本人もかつて自身の著書で書いてるらしいけど、技を磨くその精神が問われると自認しているのだ。
芝居も音楽も、そのライブなものは、その瞬間のものであり、今まで培ってきたものがやはり出る。
見栄っ張りは見栄っ張りな音がする。
姿勢に出るから、人間性まで技術でカバーは出来ない。
鍛錬したプロが、素人の観客へ見せるわけだ。
でも素人の観客は、芸事の習得や知識が素人であろうとも、同じ人として感性において素人なわけではない。その中にある何かを、その人からにじみ出るものを感じとって感動してるわけで、単なる技術だけを見てるのではない。
安易に技術を好むこともあるかもしれないが。
形に残るものでなく、こうした文化・芸術は、結果が全てではないのだ。
だから、行政の事業仕分けでも言われるが、長期的な文化的な事は結果では問えないのだ。
どんな家族でも言うでしょ?「芸で飯が食えるか」って。(笑)
生きるために食わねばならぬ。
しかし芸はその何倍も練習が必要なのだ。
その鍛錬は、心身を作っていくのであるはずが、その特質の中でいつのまにか性格が歪むのはなぜなんだろうね??アハハ。
上手くなれば、強くなれば、人は油断をする。
芸の鍛錬は、心の鍛錬の何ものでもない、と私は感じてる。
だけど、技術の練習に追われるから、心を落としていってる。
「技身体」が揃うとは、いかに難しいことか。
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結果を出せばいい。
という定義を持つ事に私は、少し抵抗がある。
手段を選ばず努力する。という意味合いとは違う。
かつて、相撲界にもありましたね。苦笑
結局、横綱という地位になってもその世界ではすごくても、一歩離れたら「ただの人」。著名人であれば、世間へ出てもその「地位」で人は見る。その難しさがあるけれど、自覚しなければいけない。
「おごり」という言葉に尽きる。
だから、私は今回の事は、歌舞伎の興業の一環でもある会見をキャンセルして、出かけたことが全ての発端であり、役者としてあるまじき行為だと強く言いたい。
百歩譲って、出かけても、酒を飲まないこと。
五百歩譲って、飲んでも飲みすぎないこと。に尽きると思う。
かつての横綱もそうですが、
「やることやってれば(勝ってれば)、いいでしょ?」
という姿勢が嫌いだ。
興業のために色んな営業ごとを疎かにする、その姿勢が嫌いだ。
それも主役の仕事だからだ。
そんなのは、裏方がやればいい、みたいな姿勢が嫌いだ。
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今回、玉三郎さんが難しい演目をやるらしい。
「役者は呼ばれるうちが華」
とても謙虚な言葉で、芸に対する謙虚な姿勢を感じる言葉であり、
結果、結果を出すために律することが多くなる。
それは、全て芸のため、なのである。
その選択をした、自分のためなのである。
日本人なのかもしれないが、日本人は謙虚な人間が好きだ。
だから、石川遼選手や斉藤祐樹選手みたいな人柄を好む。
やんちゃな部分が魅力と言うけれど、
地味に地道にやっていらっしゃる、偉大な先人歌舞伎役者の方々や関係者に対して、失礼だと思う。
「型破り」という言葉があるが、
それは、「型」を知ってるから破れるのであって、
若輩ものにはまだまだ偉そうに型は破れない。
そう謙虚に思わねばなるまい。
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ま、ジャズをやってる人間なら、
かつての名プレーヤーが素行が良かったか?というと、笑いが出ますが、いくつもの名盤を残してくれてるわけですが、そうすると上記の事と矛盾するんですが。
そういう意味で、どう言葉をまとめようか、、、迷ったんです。
ま、またそのうちに、何か沸いたら、書くとします。
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