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正月番組

段々、見なくなりました。正月番組を。
そんな中ちょっと目に留まったものが。。。。

(1)
かくし芸大会。
それも見たのは、堺正章さんの時だけ。(笑)
子供の頃10歳くらいだと思うけど、かくし芸の堺正章を見て
本物のエンターテイメントだ、と思ったのだ。
こういう人を芸能人というのだ、と思ったと言いましょうか。
子供ながら、本物を見て感動したって感じでしょうか。

子供の感性を侮ってはいけないと、子供ながらに私は思った。
というか、自分のその感動する心を私はどこかで今も信じている。
ふっと思い出した。

(2)
くだらない(笑)愛エプ。
そこで黒柳徹子さんが「これは馥郁な料理です。」と言った。
馥郁(ふくいく)、、、父が私の名前を言う時いつも「馥郁の郁」と言っていた。
父は国語の教師だった。
今それを言って通じるのは、60代以降かと思われる。
それくらい使われない言葉だが、私の名前の語源としてそんな事を大切に思っている。
徹子さん、使ってくれてありがとう。(笑)

馥郁:よい香りがただよっているさま(大辞泉)

(3)
NHK「プロフェッショナル」今回はイチロー。
すごかった。よくここまでTV撮影を許したな、ってくらい自宅を見せ、プライベートを公開した。そして内面を語っていた。

2007年の自分は、プレッシャーから逃げない。
170本安打を超えると重圧を感じ、微妙に誤差が出る、心拍も上がる、体調に変化が起こる。自分はプレッシャーに強いタイプではない。と言う。メディアに取り上げられるイチロー、自分が思う自分・イチロー、勝手に作られたイチロー像、そんなギャップがありすぎて、とがる事でしか自分を守れなかった過去のイチローがある時期から変わった。なんだろうね。(笑)でも私は今のイチローが好きだ、好きになった。人間らしいし、「つらい」とメディアに口にする今のイチローが見えるからこそ、彼の向かうものが人に見え始め、説きやすいと思う。何かを目指す人間には、いい指針になる。

彼の語る言葉から、彼が求めるものは実にシンプルな原点でしかないと感じるし、自分の音楽道(って言い方が正しいか分かりませんが)にフィードバックできるものであります。

「目に見えない、何か」
それをつかみかけた時、きっと未知の世界に求め続けたものに辿りつくのではないか、、、というものだ。バッターボックスでしか感じれない何かがある。
その何かをつかみかけた2007年。

その何か、、、という表現は、実にステージに立った時の感覚に酷似してる。

「手を出してはいけないものに手を出すからヒットが出ない」
あの高度な感覚が故に、敢えてボール球に手を出しつつもヒットを打てるイチロー故の
苦しみかもしれないが、上記の言葉は実にシンプルな事を言っている。

1年くらい前に、私は歌いながら雑音に苦しんだ。
「雑音」が正しい表現か分からないが、歌いながら行きたい音を悩むという感覚だ。瞬間的感覚で心に浮かぶ音が発生するのだ。でも音楽的にまとまってるわけでないから、とっても変になる。上記のイチローの言葉の枝葉として考えられる事だ。

だから、私はやはり練習しながら行きたい音を確かめるトレーニングを始めた。雑音は半年以上続いた。ライブやステージは落ち着かなかったと記憶する。微妙な時もあるし、その行った音は合っていてもそこからの創作が出来なければ音楽として成立しないし。(笑)
出した、出た音に責任を持ちその音から行ける音(着地点)を見極めると言いましょうか、、、そんな感覚です。それが即興の定着感って感じですが、これもきっともっと変化していくでしょう。

イチローは2007年首位打者を逃した。
それが確定した後のセンター守備の時、一人静かに目に涙を浮かべていた。
NHKのカメラを逃していなかった。

・・・プロフェッショナルとか何か?
「ファンを圧倒し、仲間を圧倒し、圧倒的な結果を残すこと」

その本当の高みは、誰にも分からないのだと思う。
イチローのストイックさを私は尊敬している。

あと楽しみと言えば・・・のだめ。(笑)

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